2006年11月9日木曜日

愛犬の手術

うちのワンコが手術をしました。何時間もかかる大きな手術でした。術後、まだ会っていません。

正直、手術をして良かったのか、どうだったのか、今でも自信がないのです。手術を終えた今も、一瞬も忘れることが出来ず、そのことを考えています。朝起きてから今まで、お料理している時も、ご飯を食べている時も、誰かと話している時も、頭の中の30%はある思いに占められています。

「そこまでして生かすのは私のエゴだったのか?そこまでして長く傍にいてもらおうなんて、単なる自己中じゃないのか?でも、苦しめたくないし・・・。」

後悔に近いような、だけど、他に選択がなかったような、もどかしい気持ちでずーっといる。
そして、もうひとつ。今日一日危険性もあったので「死んじゃったらどうしよう・・・」焦りに似た感情が時々湧いてきていた。
今日は朝から、涙を我慢するのに精一杯だった。今、悪い電話がなかった一日を終え、ホッとしている。今日はやっと眠れるかもしれない。

もちろん退院してきたら、出来る限りの愛情をかける。傷ついた身体をホローできるのは、たっぷりのケアと、愛情をかけることでしか補う術を知らない。

私は言葉などの直接的な愛情表現が下手だ。恐ろしく下手だ。だからSMなのかもしれないけれど。傷つけ、傷つけられることで愛情と存在意義を確認したがる特殊な人たちをも受け入れてもらえる世界。
でも、動物は、とくに犬は未熟な愛情表現でも受けてくれる。そして、言葉はなくても何となく愛情が伝わっているのを感じたりする。大きな犬に抱きついている時、安心感も得られる。甘え方を忘れた私が、甘えられる唯一の時。

気がつけば、何か、誰かの存在が思った以上に大きかったと知ることがある。うちのワンコ、私が思っていた以上に私の中で大きな存在だった。海外生活でも、父が逝ってしまった時も、いつも私の隣にいてくれた。

チャネリングってご存知?周波数を合わせて草木や動物とお話できるの。何年か前までは信じていなかったんだけど、あることで信じるようになった。
今回、愛犬の手術を決断する前にチャネリングをお願いした。まさに藁をも掴む気持ち。基本的には今の生活に満足してるらしいが、いくつかの要望があった。

「もっとベットの近くに行きたい。」
「(犬の)寝るところの床をもっと柔らかくして。」
「もっと美味しいものが食べたい。」
「もっと水が飲みたい。」
そして、愛犬の頭の中にはベルギーかと思われる景色が残っていた。なだらかな丘、牧羊地・・・最後に一緒に過ごしたソワニーという村だと思う。・・・日本に連れてきたことも飼い主のエゴなのでは?と考えてしまった。

私は私がママで、ワンコは息子って位置づけだと考えていたけれど、うちのワンコの考えは違った。うちのワンコは私のことを「心配して、守ってあげなければいけない存在」と考えていたのだ。そして、私のことを「この人は泣き虫なんですよ。よく泣くんです。」と言ったらしい。大当たりだったので、すごく恥ずかしくなった。

私はよく愛犬に話かける。泣く。人前で泣いたことのある回数は限りなく少ない。(父が亡くなった時は号泣したけど。)ところが・・・よく考えたら、私はうちのワンコの前ではよく泣いている。泣き虫だって言われても仕方ないのかもしれない。

ワンコがいないこの家で、存在の大きさを知った今夜。ひとりでいるのに弱くなったなぁ。あれだけひとりも大好きだったのに。